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我,投入慰安婦問題的契機

  國中、高中歷史課本上一定都會提到這段時代背景下的故事,「慰安婦」是時代的產物,「戰爭性暴力」也是一直到今天都還存在於世界上的角落,婦女、孩童等生活在社會底層的人民往往都會是損失最慘重、無端被波及到的一群人。從課堂上,我們學到了台灣「慰安婦」阿嬤在當時多半是以招募食堂女服務...

2017-04-21

2017.04.21 來自柴洋子小姐給大家的一封信


柴洋子さんより
來自柴洋子小姐的話



みなさま
給大家的一封信

残念な、悲しいお知らせをしなければなりません。
很不幸的,在這裡要告訴大家一個令人難過的消息。

台湾の陳蓮花さんが今夜2017年4月20日、午後8時頃お亡くなりになりました。
台灣的陳蓮花女士於今晚2017年4月20日,晚上八點左右已經離開人世了。

昨年の12月10日の「阿媽の家」オープンには元気な姿を私たちに見せてくれたので、そのとき、開館式に参加してくださったみなさまから声をかけてくれたかたもいたと思い、お知らせいたします。
自去年12月10日「阿嬤家」開館時,(蓮花阿嬤)為了要讓大家能夠看到自己充滿元氣的一面,那個時候特別邀請大家一起參加阿嬤家的開幕式,其實在這背後還有一件事。

開館式以後、台湾の正月が終わった頃から体調をくずし、3度ほど手術をしました。
開幕之後,台灣的農曆春節結束時,(蓮花阿嬤)的身體狀況急遽下降,歷經了三次手術。

4月13日、ICUに入っている陳蓮花さんにお会いしてきましたが、チューブが口に入っており、呼びかけるとうっすら目をあき、かすかにうなずく様子がみられましたが、言葉を交 わすなどはほど遠い状態でした。
4月13日,我和住進 ICU 加護病房的陳蓮花女士見了一面,因為嘴巴有插管(所以不方便說話)但是呼喚阿嬤的名字時,阿嬤眼睛微微的張著,微微的點頭告訴我她有聽到我的呼喚,但要透過言語對談又是另外一回事了。

陳蓮花さんは、1924年生まれ、フイリピンで看護助手を募集しているといわれ、セブ島で「慰安婦」被害を受けました。
陳蓮花女士生於1924年,以為自己是要到菲律賓去當護士,結果在宿霧島受害,成為了「慰安婦」。

米軍の攻撃を受けたりしながらセブ島に到着。台湾人兵士に「どうしてきたのか」と聞かれ、「看護婦の仕事をしに」といったら「看護婦じゃない、慰安婦だ」と言われましたが、「慰安婦」の仕事とは何かわからなかったといいます。
在前往宿霧島的航程中,也有遭受美軍的攻擊,但阿嬤還是平安的抵達宿霧島。抵達宿霧島之後,台灣人士兵問阿嬤說「為什麼會跑來這裡呢」,阿嬤說:「來這裡當護士啊」,士兵回答:「不是來當護士,是來當慰安婦的。」蓮花阿嬤說,那時候聽到「慰安婦」一詞,還不知道這究竟是什麼樣子的工作。

やがて米軍の艦砲射撃がひどくなり、山中へ逃げ込んだりしますがこの逃避行の中で台湾から一緒に来て仲良くしていた女性が亡くなり、彼女の爪や髪を切って持ち帰りました。帰国してからも彼女の身内を見つけられなかったため、その後も蓮花さんはその人を弔い続けたといいます。
雖著美軍的砲擊攻勢越來越強,大家各自往山中逃跑,在避難的過程中有一位和蓮花阿嬤很要好、也是從台灣來到宿霧島的女性過世了,阿嬤一路帶著這位朋友的一小塊指甲和頭髮一起回到台灣。回到台灣之後阿嬤一直找也沒有找到那位朋友的親人,在那之後蓮花阿嬤代替這位朋友的親人,一直都記得要替這位好友燒香祭拜。

日本降伏後、米軍の捕虜収容所で、最初にあった台湾人兵士が蓮花さんを探しに来て奇跡的に再会し、やがて台湾に帰ってから2人は結婚します。帰国してからも経済的には苦しく、洋裁などで生計をたてました(蓮花さんは、ワークショップに参加するときなど自分で縫ったという洋服を着ていつもおしゃれでした)。
日本投降之後,蓮花阿嬤在美軍的收容所和那位當初一抵達宿霧島時遇見的台灣人士兵奇蹟似地再相遇,因為這段姻緣,兩人回到台灣之後便成婚。剛回到台灣的時候經濟狀況很差,蓮花阿嬤開始以裁縫維持生計。(蓮花阿嬤像是在參加工作坊的時候,都會穿著自己縫製的洋裝,總是很華麗地「妝佮水水」地出現在眾人面前)

蓮花さんは、阿媽たちのワークショップ等にはいつも参加していましたが、公に名前や顔を出すのはずっと後のことでした。
なぜ、顔や名前を出すことにしたの?と聞いたことがあります。蓮花さんは「もう年をとったからね。いいんだよ」といいました。
蓮花阿嬤從身心工作坊開辦以來,幾乎每次都有參加,但是要在公開場合面前露面、公開姓名……其實是比較後期的事情。
我曾經問過蓮花阿嬤說:「為什麼突然願意公開自己的名字和臉呢?」,蓮花阿嬤回答道「也已經到了這個歲數了,沒關係(=不會這麼在乎這種事情)了啦」。

蓮花さんが初めて大勢の人を前にした証言は、日本の京都での証言集会の時でした。ときおり、日本語でカンポウシャゲキと表現し、そのすさまじさを「パラパラパラ」と身振り手振りで語りました。そして泣きました。なるべく泣かないように毅然としていた蓮花さんが泣きました。
蓮花阿嬤首次在很多人的場合上公開指證是一直到日本京都的那場「證言集會」。有時候用日文要表現出「艦砲射擊」的場面時,為了要讓聽眾有身歷其境的臨場感,會擺動整個身體、揮動著手地說著。然後就落淚了。明明很毅然地表示自己能不哭就不哭地蓮花阿嬤,還是忍不住哭了出來。

気強く、信仰深く生きてきた蓮花さんの旅立ちの途がどうぞ平安でありますように・・・。
這一路上很堅強、秉持著信念的蓮花阿嬤,在生命的最後一段旅途中希望阿嬤也能走得很安穩……

蓮花さん、私たちはあなたを忘れません。
蓮花女士(阿嬤),我們永遠都不會忘記妳。

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